ばねいた!

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【小説】トレバー・ストーンの日記(2)【はよー】

――――――――――――――――――――――――――――――――

 帝都から西へ向かっている。
 私が個人的な日記をつけている一方で、ベインは誰かに手紙を書いている。羨ましいことだ。私には手紙を出すような相手はいない。
 荷物の中の食糧は、量だけはある。味は無いも同然だ。口の中でぼろぼろと崩れる水気のないパンは土を食っている気分になる。このことに不平を言いたいところだったが、同じものを食っているベインに言っても八つ当たりというものだろう。だから日記に書いているわけなのだが。
 道中は上り坂ばかりだった。馬を疲れさせないために、しばしば馬を降り、手綱を引いて歩かなければならなかった。馬に倒れられたら一巻の終わりだ、とベインは言った。それはしごくもっともだ。馬がいようと、ときには歩かなければならないというのも、旅のコツというものだろう。
 ベインの知識は多岐に渡る。ただ、それを実践するとなると別のようで、彼が日に日に疲労を蓄積させているのは、傍目で見ていてよくわかる。
 私の体は、まったく旅にこたえていない。記憶を失う前の私は、こういう旅に慣れていたのか? 想像を膨らませてもしかたのないことだが。
 とにかく、私は平気だ。ベインの様子が気がかりだ。

――――――――――――――――――――――――――――――――



 帝都を出てから四日も経つと、ベインの憔悴は目に見えて明らかだった。
 追手を引き離すために、ほとんど休むことなく馬に揺られてきたのである。ベインの馬術は、お世辞にも達者とは言えなかった。ベインは若く健康な青年ではあったが、どちらかといえば体つきは華奢な優男だ。標準的な体力しか持たない彼にとっては、少しばかり過酷な道程だったろう。
「ベイン、少し休もう。急ぐ旅じゃないんだ」
 ベインは鞍の上で眼を閉じたまま、曖昧な声で言った。
「目的地はまだ先だ。これは計画通りの旅程だよ」
「強がりはよせよ。体を壊したら逃げるどころの話じゃないだろう。それとも、自分が倒れることも計画のうちか?」
「自分のことは、よくわかってるんだ。ハードヘッド」
 私は少しむきになって言いつのった。人のことを石頭などと呼ぶわりに、彼もかなり強情なところがある。
「そりゃ私は自分のことも忘れてしまった男だけどね。君だって自分が心配されるような顔をしているってことくらい、自覚したっていいんじゃないか?」
 ベインは腫れぼったい瞼の上の眉を不機嫌そうに歪めて言った。
「お前は自分が狙われている身だという自覚を持った方がいい。心配するな。目的地まで、あと少し。まずはそこまで辿り着きたいんだ」
「あと少しってのは、どれくらいだ? 君が倒れる前に辿り着けるくらい、あと少しなんだろうね?」
「ああ。もう見えているからな」
 ベインの指さした先に、白い土の敷かれた畑に囲まれた屋敷が見えた。今は時期ではないのか、作物は植えられていないが、広大な農園だ。
「賭けるかい? ハードヘッド。俺が倒れる前に、目的地まで辿り着けるかどうかさ」
 私はうなった。それは分の悪い賭けになりそうだ。



 屋敷が大きく見えてくると、かん高い声でわめき散らす男の声と、それに静かに言い返している女性の声が聞こえた。
「なんだか揉めているみたいだ」
 私は鐙の上に立ちあがって目を凝らした。背の高い妙齢の女性が屋敷の入口に立ちはだかり、頭にまばらな禿げがある小男が彼女に食ってかかっている。耳を澄ませると二人のやり取りが聞こえた。
「――保管されているものがあるはずでしょうよ? 私らを満足させるのに十分な量が! それさえあれば、生産を再開できるんだ。あなただって、望んで私らを苦しめているわけじゃないはずだ!」
「決まったことなのですよ、コリンズ。生産は中止。昨年の収穫が最後。あなたたちには最後の給料を支払いました。解雇にあたって補償も差し上げました」
「どうでもいい! 金じゃあないんだ!」
 男――コリンズの声が跳ね上がった。自分の髪の毛を掴んで搔きむしっている。そうやって彼は禿げを増やしていったのだろう。
「苗を分けてくれよ、サフレティさん。勝手にやるから。給料なんかいらないから、あれを育てさせてくれ。土地は枯れちゃあいないんだから」
 背の高い女性――サフレティは、残酷なほど穏やかな口調で、ゆっくりと言った。
「あの畑には色とりどりの花を植えようと考えています。一面の花畑を想像してごらんなさい。素敵でしょう?」
「花だって?!」
 コリンズは目玉が飛び出さんばかりに眼を剥いて、残り少ない自分の髪をぶちぶちと引き抜いた。ひざまずき、地面に額を何度も叩きつける。
「わかってくださいよ、サフレティさん。あれがないと駄目なんだ……。私らを助けてください……。お願いですから」
 サフレティは硬い表情のままコリンズを見下ろしている。コリンズの嗚咽がいっそう激しさを増した。



 このままではコリンズがサフレティの首を絞めかねない。そう思って馬から降りた私は、ベインの体が馬上でぐらりと崩れる落ちるのを視界の端にとらえた。
 あわや地面に激突するという寸前で受け止めたが、ベインはひどい熱にうなされていた。背中は冷たい汗で濡れている。私はパニックを起こしかけた。
 屋敷に近づいていくと、ベインを抱えた私の姿を認めるなり、サフレティが駆け寄ってきた。
「ベイン! どうしたのです」
「熱が……さっきまで強がっていたのに。帝都から四日かけて、ほとんど不眠不休で、馬で旅を……」
「屋敷に運んでください。まずは寝かせて」
 サフレティは、もはや足元にうずくまる小男のことなど忘れたようにコリンズを素通りした。私は彼のことを少し哀れに思ったが、今はベインを屋敷に運び入れるのが先だ。
 閉じた扉の向こうで、コリンズのすすり泣く声はしばらく続いていたが、やがて嗚咽は先細りになり、聞こえなくなった。
「あの男を放っておいていいのですか?」
「彼には仲間がいますから。その連中が彼を連れて行ってくれるでしょう」
 私はベインに視線を戻した。
「それで、ベインは……?」
 小さな眼鏡を鼻に乗せたサフレティは、手慣れた様子でベインの様子を看ながら言った。
「見かけほど深刻ではなさそうです。疲れたのでしょう。今は眠らせてあげなさい。目が覚めたら、暖かいものを食べさせてあげましょう」
「よかった」
「ところで、あなたは?」
 サフレティは眼鏡を懐にしまいながら、私に少し疑わしげな目を向けた。
「トレバー・ストーンといいます。ベインの友達で、一緒に旅をしてきました」
「そう。同じ旅をしてきたわりに、あなたは平気そう。タフなのですね」
 私はなぜだか恥ずかしくなって目を伏せた。無神経だと言われたような気がする。
 そのときベインが苦しげなうめき声をあげて、薄らと目を開けた。
「わかるか? ベイン、もう着いたんだ。だから、ゆっくり眠っていろよ」
 ベインは大きく長い息を吐き、心の底から安心したように目を閉じた。
「賭けなくてよかった」



 屋敷の室内には手作りと思われる木彫りの彫像がいくつもあった。羽を広げた野鳥、鹿、狼。どれも精巧で、よくできている。
 ベインの寝息が落ち着くと、サフレティは静かな声で自己紹介をした。
「私はサフレティ・マクガイスト。この農園を経営しているフランシスの娘です。父は足を悪くしていて、あまり人前には出ません」
「それであなたが、ああいう手合いにも対応を? 大変でしょうに」
「もう慣れました。父が閉じこもりがちになったのは、昨日や今日の話ではないのですよ。コリンズのような男がやってくるのもね」
「もしよければ、マクガイスト氏にも挨拶をしたいのですが。急に押しかけてしまいましたから」
「そんなことを気にする間柄ではありませんよ、父とベインは。ベインのお友達だというのなら、あなたのことも信用するでしょう」
「ベインとは、もう長いのですか?」
「三年ほど前、ベインが父を訪ねてきました。父はいたく彼を気に入ったみたいで、それから手紙のやり取りが続いているようですね」
「あなたは、三年前に会ったきり?」
「ええ」
 サフレティは、三年越しに会うベインを、一目で彼と見て取ったのか? よほど最初の出会いが思い出深かったということだろうか。つまり――。
 ――いや。邪推というものだ。私に関わりないことでもある。
「コリンズという人と揉めていたようですが――すみません。聞こえてしまったのです」
「謝ることではありませんよ。彼の声を無視するのは難しいでしょうからね。仰るとおり、彼らとは少しばかり問題を抱えています」
「生産を中止するとか?」
「ええ。以前から決まっていたことなのですが、一方的に解雇したこちらにも責任があります。彼らには十分な補償金を支払いましたが、なかなか納得していただけません」
「なにを作っていたのです?」
「煙草ですよ。とても高価で、利益を上げていました。ですが、父は以前のような情熱を失ってしまいましたし、私の手腕では、多くの雇用者を抱えたまま経営を続けることは難しい。そこで業態を一新し、縮小して、もっと慎ましくやることにしたのです」
「花ですか」
「そう。花です」
 サフレティは微笑した。魅力的な笑みだ。
「素敵でしょう?」
 私は彼女の顔を直視できず、俯いたまま何度も頷いた。



 陽が蔭り、ランプに灯が入れられた。サフレティは父に食事の用意をすると言って、奥の部屋へ消えた。私が居間に飾られた木像を見るともなく眺めていると、横になったままのベインが言った。
「サフィは嘘を吐いている」
「ベイン。起きていたのか?」私は眉をひそめた。「嘘だって?」
「ミスター・コリンズは、ただの煙草の生産に、あれほど執着していたと思うのか?」
「待てよ。君はミス・サフレティをニックネームで呼ぶような仲なのか?」
「――嘘を隠すための嘘か。ああ、彼女が隠したがっていることを、俺の口から言うわけにもいかないし」
「おいベイン。もったいつけておいて、なにも教えないつもりか?」
 ベインは億劫げに手の甲を額に乗せ、その下から片目で私を流し見た。
「自分の目で確かめろよ、ハードヘッド。嘘は君の目の前から真実を消し去ったりしない」
「君は熱に浮かされて、うわごとを言っているんじゃないかと思いはじめたよ。まだ休息が必要なんじゃないのか?」
「お前の方こそ、熱にやられているように見える」
 私は自分の顔が熱くなるのを感じた。すぐさま反論しようとしたが、頭の中には、からかわれてむきになった子供さながら、陳腐なセリフしか思い浮かばなかった。確かに私は惹かれていたのだ。
 ベインが長々と溜め息を吐いた。
「トレバー。お前がサフィに愛を告白する前に、彼女の告白を聞くべきなんだ」
「……わかったよ。友人の忠告を聞こう。つまり、私は何を知るべきなんだ?」
「フランシスに会え。彼女の父親に。まずは、それからだ」
「父君に挨拶してこいってわけか。それは実に的確な指摘だな」
 私はぶつぶつ言いながら立ちあがり、サフレティの消えた奥の扉に手をかけた。
「トレバー。喫煙を勧められても断れよ」
「子供じゃないんだぜ」
 私はベインのくどい視線を遮るように扉を閉めた。



 広い屋敷だが、迷うことはなかった。明かりの洩れている部屋は一つしかなかった。
 私が扉をノックすると、中からサフレティの静かな返事が聞こえた。
 書斎のような部屋だった。古めかしい本棚があり、磨き抜かれた机があった。
 甘い煙が漂っている。机の上には水差しのような形をした喫煙器があり、上部から二本の管が伸びている。その管をくわえて喫煙するのだ。
 喫煙器を挟んで、サフレティと、毛皮の帽子を目深に被った浅黒い顔の老人が座っていた。
「トレバーさん。どうかなさって?」
「いえ。やはりマクガイスト氏にも一言ご挨拶をと思って」
 私は老人に向かって自己紹介をし、宿と食事に感謝していると伝えた。
 フランシス・マクガイストは、帽子の下の深い皺が刻まれた顔を、わずかに私に向けると、黙ったまま、ぴくりとも表情を動かさず、むっつりと頷いた。
 私の脳裏に閃くものがあった。ぞっと背筋に冷たいものが走る。
 彼は――
「あなたも一服どうですか?」
 サフレティが喫煙器の吸い口を差し出して言う。
 私は内心の動揺を悟られまいとして、しいて、ゆっくりと言った。
「いいえ、遠慮します。あまり長くベインを一人にしておけませんから」
「それもそうですね。彼は目を覚ましました?」
 思わず頷きかけたが、私はかろうじて思いとどまった。
「まだ眠っています。ときどき寝言のようなことを言いますが」
「そう。まだよくないのですね。なら、起きたとき、すぐに食べられそうなものを用意しておきましょう」
「なにからなにまで」
「いいのですよ。父の友人ですから。――こう言うと他人行儀なようですけれど、私個人としても、もうあなたとは友人の気でいるんですよ」
 サフレティははにかみながら笑った。
「それはさすがに、ずうずうしいかしら」
「まさか」
 私は彼女の嘘に気づかない振りをした。彼女の嘘に加担したのだ。
 だが――ああ、ベインの言うとおりだ。嘘は目の前にある真実を消し去ったりはしないのだ。
 フランシス・マクガイストはゴーレムだ。



 ベインの顔には薄らと汗がにじんでいたが、顔色を見るに、熱は引いていた。いくらか目付きもしっかりしている。
 対して、私はベインの隣で頭を抱えていた。私の記憶をぶち壊した一撃もかくやという衝撃を受けた直後である。ひどく頭の芯が痛んだ。
 ベインはぽつぽつと語り始めた。
「フランシスとは四年ほど前から手紙のやり取りがあった。彼が死んだのは三年と数か月前――俺が、この農園を訪れる少し前だ。裏手の山に墓標も建ってる。ひどく小ぢんまりした目立たない墓だが」
「……死因は?」
「そこまでは。ともかく、俺が訪ねたときにはフランシスは土の下だったわけだが、どういうわけか、フランシスからの手紙は彼の死後も途絶えることはなかった。ある時期から筆跡が変わったのには気づいていたんだが」
「つまり、サフレティが父になりすまして手紙を書いていたのか」
「そうだ。彼女は自分の父親が死んだことを、自分だけの事実にしようとしたのだ。密かに埋葬を済ませ、自分で彫った木像を父と呼び、手紙のやり取りをし、フランシスの死を隠し続けていた」
「異様だ」
 私が素っ気なく言うと、ベインは一瞬、言葉に詰まった。
「そうだな。それを、なおのこと歪んだ形にしてしまったのは、他ならぬ俺だ」
「君か、あのゴーレムを作ったのは。三年前、ここに来たときか」
「ああ。三年前の俺は、物言わぬ木像に話しかけるサフィを見てられなかったんだよ」
「勝手なことを」
「お前がサフィに惚れて、そしてショックを受けたのも、勝手なことさ」
「それもそうだな」
 私は肩をすくめた。
「それで、どうするつもりでここに来たんだ、ベイン? まさかサフレティの様子を見て、世間話をして帰る、なんて予定で来たんじゃないよな」
「ああ。始末をつけに来たんだよ。三年前の俺の過ちと、フランシス・マクガイストの積年の過ちを」
 ――フランシス・マクガイストの積年の過ち? 私が聞き返そうとしたときだった。
 夜の割れる音が聞こえた。



 窓ガラスが割れ、石が飛び込んできた。二つ三つと間断なく投げ込まれてくる。飾られていた鳥の木像に石が当たって、棚から落ちて翼を折った。
 気の触れたような絶叫が聞こえる。扉の向こうから斧や鍬の刃が飛び出し、木片が飛び散った。さらに外から体当たりされると、扉は大きく内側に歪んだ。
「なにが、なにが起きているんです」
 奥から物音を聞きつけてサフレティがやって来た。顔は蒼ざめて両手は不安そうに胸の前で握り合わされている。
 私は、ひどく追い詰められていた様子のコリンズのことを思い出していた。サフレティは、コリンズに仲間がいるとも言った。その連中に違いない。
「サフィ、奥へ。フランシスのところにいるんだ」
「裏口はあるんだろう? そこから……」
「駄目だ、トレバー。見張られていたら手に負えない」
「コリンズ! あなたなのですか!」
 サフレティが、今にもぶち破られそうな扉の向こうに向かって叫んだ。
 扉の裂け目からコリンズの血走った目がぎょろりと覗いた。
「あんたは私らを殺す気なんだろう……? サフレティさん、あんたは血も涙もない人だ。私らが苦しんでいるのを見て見ぬ振りをして、私らが泣いて頼んで這いつくばるのを眺め下ろして悦に浸って……そして最後は踏み潰すんだ、虫けらのように……。あんまりだ! 私らは虫けらじゃない! 踏みつぶされてたまるか! 死にたくない! 殺されてたまるか! ちくしょう、ちくしょう! 殺されるくらいなら殺してやるぞ、くそ女! お前を殺してやる!」
 コリンズは何度も斧を振り上げて、それを扉に叩きつけた。子供のように泣きわめき、周囲の者はそれに倣った。わけのわからない叫び声に混じって、呪いの言葉が投げかけられた。
 サフレティの眼は焦点を失い、あらぬ方向をさまよった。唇は震え、足元はおぼつかず、呼吸は浅く速い。
 私はサフレティの頭を胸に掻き抱いた。彼女の耳を塞ぎ、延々と続く狂人たちの怨嗟の声から遠ざけようとした。
「サフィ、聞け。彼らを止める方法は一つしかない。例の煙草をくれてやるんだ。どこに隠してあるのか言うんだ!」
「ベイン! 今の彼女は自分の恐怖と闘うことで精いっぱいなんだぞ!」
「違う! 恐怖から逃げているだけだ、立ち向かわなきゃ死ぬんだぞ!」
「例の煙草と言ったな! それが連中の目的なのか? それを渡せば、彼らは間違いなく引き下がるんだろうな?!」
「ああ、なにを賭けてもいいね!」
「言ったなベイン! あれを見やがれ!」
 私は棚から落ちて翼を折った鳥の彫像を指差した。
 折れた羽の付け根の奥から、乾燥した黒い葉がこぼれている。



 とうとう扉がぶち破られた。斧やら鍬を持った者たちが、いっせいになだれ込んでくる。
「木像の中だ!」
 私は叫びながら、ひときわ大きな鹿の木像を床に叩きつけ、粉々に砕いた。黒い煙草の葉が床の上にぱっと広がる。
 狂人たちは一瞬、我に返ったように静まり返った。だが、その直後に彼らが身をゆだねた狂乱の熱は、それまでの様子とも異なっていた。
 目に目に涙を浮かべて破顔する。床の上に這いつくばり――それは煙草の葉だというのに、火をつけるでもなく――口の中に放り込み貪り食っている。
 私は今、おぞましいものを見ている。彼らを哀れむ一抹の感情は、跡形もなく失せていた。彼らはまさしく狂人だった。
「あれはいったいなんなんだ、ベイン。ただの煙草であるわけがない」
「精神に作用する、一種の薬草だ。煙草として吸引すれば、不安や恐怖を和らげる程度の効果しかない。だが生のまま摂取すると、ひどい中毒性があることがわかっている」
 ベインはコリンズたちの狂態を、憂いの深い眼差しで見ている。
「彼らは生産者として、生の葉に触れていたんだ。誰かが試みに口にしたんだろう。驚いたに違いない。全ての不安は些細なことに思われ、あらゆる心配事はたちどころに消えた。鋼のような自信をまとい、自分が神にでもなったかのような全能感を得られた」
「だが、それはまやかしだ」
「そうだ。その絶大な効果が切れたとき、彼らは勇気に倍する恐怖に駆られる。耐えがたい悪夢に夜毎うなされ、常に命の危険があると不安がり、ついにはそれに耐えられなくなり、他者を攻撃することもある。今度のように」
「こんなものを、栽培していたのか」
「それがフランシス・マクガイストの過ちだ」
「あやまちぃ? とんでもないね」
 にやにやと堪え切れないという様子で笑いながら、コリンズが振り返った。



 私は目を疑った。ぎょろぎょろと血走っていた目はなりを潜め、神経質そうに引きつりがちだった表情は緩み切っている。残り少ない頭髪を撫でつける落ち着き払った態度は、まるで別人だ。
「マクガイストさんは恩人さ。愚にもつかねえ私らを拾ってくれたんだ」
 コリンズの取り巻きたちは床に座り込んだまま、一時の狂気が幻であったかのように、ゆっくりと煙草の葉を噛んでいる。そしてコリンズの言葉に、いちいち頷いていた。
「立派な人だが、馬鹿だったなあ。耳を疑ったよ、栽培を取りやめるなんて言ったときはさ。いい人だから、なおさら許せなかったんだよなあ」
 サフレティが、震える声で反論した。
「父は、賢明な人でした。あなたたちが中毒に苦しんでいるのを知って、あなたたちを救おうとしたんです。私だって……」
「的外れなんだよ、サフレティさん。私らを救ってくれるのは雇い主でも女でもない、こいつさ」
 そう言ってコリンズは口の中の煙草の葉を唾とともに吐き捨てた。
「あんたも馬鹿な女だね。花を植えるだって? 間に合ってるだろ。あんたの頭の中に咲き乱れてるじゃないか」
 男たちは声を揃えて笑い転げた。
「誤算だったよ、ハードヘッド。こいつらは一時の狂気を別にしても、クズの集まりだった。煙草の葉を渡せば済むという話じゃなかったようだ」
「わかってないねえ、お兄さん。そもそも、このお譲ちゃんが煙草の葉を私らから取り上げて隠したりしなければ、こんなに話はこじれなかったんだ。そうさな、三年前と同じやり方で、もっとあっさり解決してたんだよ」
「なるほど。フランシスは死に方を選べなかったか」
「あんたらには選ばせてやるよ。どっちがいい? 斧で頭をかち割られるか、鍬で頭をかち割られるか」
 私は言った。
「地獄に落ちろ」



「一番先に死にたいってか!」
 コリンズが斧を振りかぶった。反撃できるか? 私は拳を固めて身を強張らせた。
 そのとき、屋敷の奥の扉が開き、毛皮の帽子を目深に被ったゴーレムが、コリンズに掴みかかった。
「お父さん!」サフレティが叫んだ。
 コリンズとゴーレム――フランシスはもみ合いになり、取り巻きの男たちは躍起になって、それぞれの得物をフランシスの木造の体に叩きつける。しかしコリンズの腕を掴んだフランシスの拳は固く握りしめられたまま放さない。めりめりと嫌な音を立ててコリンズの手首の骨が握り潰された。コリンズの喉から長く尾を引く絶叫が迸った。
「逃げるぞ、走れ! サフィ、トレバー!」
 私は自分の父親が痛めつけられるのを見て、半狂乱になって泣き叫ぶサフレティの腕を掴み、ほとんど抱えるようにして外に飛び出した。
 男たちが格闘している最中に、机に置かれたランプが落ちた。床の上に火がこぼれ、血だまりのように広がった。
 私とベイン、サフレティは、振り返る間も惜しんで馬で駆けた。サフレティは鞍の上で私の胸に顔をうずめ、か細い声でなにか呟き続けていた。
 やがて、屋敷全体が火の手に包まれた。板葺きの屋根を火柱が貫き、夜空を真っ赤に染め上げた。それを、私たちは農園を見下ろす離れた丘の上から見ていた。
「なあベイン。連中、一人も屋敷から出てこないみたいだ」
「彼らは恐怖を感じないんだ。もしも彼らが恐怖を覚えるとしたら、それは例の煙草の葉を失って、再び悪夢の夜に苛まれることさ」



「フランシスは……」
 私は言いかけて、言葉に詰まった。胸の中のサフレティに、なんと声をかけたらいいのか、わからなかった。
 するとサフレティが顔を上げた。その顔は涙で濡れてはいたが、表情は冷静さを取り戻しているように見える。
「父は、三年前に死にました。あのときほど、悲しみは深くありません」
「あなたは、あのゴーレムを……」
「父だと思い込もうとしました。最初はただの木像だった。ベインが動くようにしてくれて、ますます深く思い込もうと。でも、それは嘘だと、わかっていました」
 嘘は目の前の真実を消し去ったりしない。私は胸の中で呟いた。
「悲しみを癒す時間も、その方法も、私には与えられていました。手紙をやり取りするうちに、あなたの優しさを知ったのですよ、ベイン。最初は、父が死んだとは書けなくて、その場しのぎの嘘だったのだけれど、途中から、ああ、この人は父が死んだことに気づいていると、その上で、私の嘘に付き合ってくれているのだと、わかったのです」
 ベインは燃え落ちる屋敷に顔を向けたまま、黙り込んでいる。
「あなたは優しい人ですね、ベイン」
「愚かだった。ここには、その償いをしに来たんだ、サフィ」
「私をそう呼んでくれるのは、父とあなただけでした」
 サフレティの頬を、音もなく涙が伝い落ちた。
「今は、あなただけですね」
 もうもうと夜空に溶け込む黒煙をあげて、屋敷が燃えている。
 不安や恐怖や悲しみを、覆い隠してくれる煙が、あの中に混ざっているのだとしても。私は今、炎に照らし出された明かなる悲しみと向き合っているのだ。
 それを忘れたりはしない。決して。



 翌朝、近くの村で馬車を雇った。
 サフレティは馬車を前にして、穏やかな口調で私に言った。
「帝都に行こうと思います。なんとかやっていきますよ。これまでも、なんとかなっていたのですから」
「やっぱり、花を育てるのですか?」
「馬鹿だと思いますか?」
「まさか!」
 私は思わず大声を出してしまったことを後悔しながら言い直した。
「応援します。心から」
「ありがとう。あなたもベインに負けず劣らず優しい人。あのゴーレムを見たとき、それと気づいたのに、私の嘘に付き合ってくれましたね」
「本当に気づかなかっただけかも知れませんよ」
 サフレティは口元に手を当ててくすくすと笑った。
「それに、彼よりずっとタフね。コリンズと闘おうとしてくれたこと、見ていましたよ」
 私は思わず顔をそむけた。耳まで真っ赤になっているに違いない。
「ベインが、帝都に行くのなら力になってくれそうな人を紹介すると言っていました」
「お気持ちだけ。頼りきりにはなりたくありませんから。けれど、本当に困ったときは遠慮なく頼らせていただくわ。彼とは、そういう友達でいたいものです」
「私は――」
 これを言ってもいいものか、昨夜はほとんど眠らず悩んだ。言うと決めたのだ。今さら躊躇していられない。私は飲み込みかけた言葉を、絞り出すように言った。
「……あなたを、サフィと呼んでも?」
 サフレティは驚いたように目を見開き、そして柔らかに微笑みながら、目じりを指先でぬぐいつつ応えた。
「ええ、もちろんよ。ハードヘッド」
 私はよっぽどおかしな顔になったのだろう。サフレティは思わず吹き出して、声を上げて笑った。そういう笑い方もする人なのだ、サフィは。



 そして私は再びベインと馬上の人となった。
「まだ本調子じゃないとか言って、ほんとはサフィと別れるのが嫌だったんだろう、ベイン」
「別れるのを得意にするやつがいるかよ。お前ってやつは浮かれやがって。そんなに彼女と仲良くなれて嬉しいか」
「ああ嬉しいね。悔しかったら自分も恋をしてみろよ」
「誰が悔しいものか。色恋にうつつを抜かしていられるかよ」
「朴念仁め。それはさておき、ベイン。私に言うべきことがあるんじゃないのか?」
「なんだよ。にやけて、気持ち悪い」
「コリンズたちが押しかけてきたとき、煙草の葉を渡せば連中は引き下がると言ったよな。なにを賭けてもいいとも」
「お前ってやつは、どうでもいいことを覚えてやがって」
 ベインは不愉快そうに眉をひそめながら、荷物の中から年季の入ったパイプを取り出した。煙草の葉を詰めて、火を点ける。
「おいベイン、それは」
「そんな顔をするな、ハードヘッド。ただの煙草だ。別にいかがわしいもんじゃない。もっとも、お前が喫煙という行為そのものを嫌悪していて、喫煙者をことごとく排斥しようという活動に積極的に取り組んでいるというのなら、俺も耳を貸さないわけじゃないが。……おっと、ここでお前は、サフィも愛煙家だという事実を思い出しておくべきだな」
「わかったよ、好きにしろ」
「それで、賭けの負け分だが」
 ベインが顔を上向けて、器用にも口から輪っかの煙を吐いた。
「そうだな。次の目的地は、お前が決めてもいいということにしよう、ハードヘッド。俺は当初の目的を果たしたし、ここからは本当にあてのない旅だ」
 私は検討する素振りで自分の顎を指をやった。なるほど、それは悪くない。こういう形でベインから譲歩を引き出していけば、彼の強情っ張りをあらためていけるのではないだろうか。
「お前、性格が悪くなったんじゃないのか? 悪だくみの顔をしているぞ」
 私は肩をすくめて言った。
「付き合う友人の影響さ」


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